12.17.2012

ちりめんじゃこについての考察


先日、こんな文章を見つけました。




「ちりめんじゃこを水に漬けたら、また泳ぎ出すと思う?あなたが望んでいることは、つまりそういうことなのよ」というセリフを、皿を洗いながら思いついた。具体的なつかいみちはない。





覆水盆に返らず。



ただ、細部を言うならば
ちりめんじゃこというのは、
「覆水」ではない、と私は思う。
ちりめんじゃこというのはそれ自体では
「使い途のない、間違った状態」ではない。
こぼれた水はそれ自体、誰の目にも明らかに
「しっぱい、まちがい」だが
ちりめんじゃこは、一つの目的を持った価値のある実体である。
ただ「泳いでいる魚」とは、
全く意味も目的も価値も違う。
ちりめんじゃこは食べるために加工された完成品であり
泳ぐ魚は、それ自体が一つの目的の達成系である。
べつべつの「価値あるもの」なのだ。



考えてしまった。


ちりめんじゃこは、成るべくして、ちりめんじゃこになった。

たぶん、水につけたら美味しいダシがでる。(でるよね?でない?)

また泳ぎだして欲しかったかもしれないけれど、

結局は美味しいダシとなって、料理に使って

わたしたちの胃袋を満たしてくれる。

それはそれで、大いに価値のあるものだ。

わたしたちは、自分たちの望む道筋の一寸先にしか焦点を

当てずに、それは意味があるとかないとか

よかった、よくないを判断するけれど

きっときっと全体として、

世界は完璧に出来上がっているのではないかと思う。






(自分で考えてて、そんなに深く考える必要のないことだと思ってます。)









今日は後半、ひたすらビーズとスパンコールを縫い付けていました。

ふだんは着てくださる花嫁さんがいて、
その方が着てくださるのを前提に作っていますが
今つくっているものは、
いったいどんな花嫁さんが着てくださるのだろう
と想像しながらひとつひとつ針を通しています。
それはそれでおもしろい。

縫っていて、改めて、
わたしはこのお仕事が心底好きなんだと思いました。
このお仕事を通して出会えた人が大好きです。


数年前、一度ウェディングのお仕事から離れることになったとき。

学生のころ友達が
「ウェディングは天職だと思うよ」って
何気なく言ってくれた言葉が張り付いて
(きっと彼女はそんなことを言ったことすら覚えていないと思う。)
勝手にその言葉を裏切ってしまったという
罪悪感をずっと持っていました。

でも、今なら
そのときとは全然違う気持ちで、その言葉に
「ありがとう」って言えます。

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